不登校の中学生が学校に行かない本当の理由

1 不登校の理由が言葉にできるときの可能性

子どもが不登校になったとき、その理由がなぜなのかが気になります。勉強についていけない、クラスの雰囲気になじめない。実はいじめられている・・・目に見える理由は様々あります。理由が明確なのであれば対処の仕方もわかります。ここで考えられる可能性が二つあるのです。一つは正直に理由を述べている。文字通りの理由で学校に行きたくないときです。もう一つの理由が、本当の理由は別にある、または自分でも分からないけど、とりあえず、親や先生が納得させるために、それっぽい理由を言っておくことです。そして、多くの場合が後者なのです。不登校の理由を取り繕って、しばしの休息を得る。その間に自分で何とかしようという思いが子どもの中にはあるのです。では、言葉にできない本当の理由とは何なのでしょうか。

2 あいまいな理由の奥にあるもの

「なんで学校に行かないの?」

と問いかけても

「なんか分からないけど行きたくない」

というモヤっとした理由が返ってきても、学校を休ませるに十分な理由とは認めることが難しいです。不登校のお子さんを持つお母さまのカウンセリングで受ける相談で多いのが「うちの息子(娘)はなんで学校行かなくなったんでしょう?」というものです。そこが分かれば、「それなら仕方ない」と思えるかもしれないですし、親としても子ども不登校を受け入れられるのですが、行きたくない理由は不明確なままです。そこを追及しても、子どもは苦しくなるばかりで、不登校の解決には向かいません。1のところでも書きましたが、表面的な理由を取り繕っても、それとは別に本当の理由がある場合もこれと同じです。

自分でも分からないけど、学校には行きたくないのです。理由が言葉にできない理由は自分のことを変な奴だと思っているからなのです。

不登校している中学生にこれまでお話を伺ってきて分かったのは、意味を問うているのです。その意味とは

学校に行く意味
勉強する意味
生きる意味
生まれてきた意味

などです。答えの出ない哲学的な問いが頭の中でグルグル回っている。そんな中で、

幸せって何だろう?
豊かになるってどういうことだろう?
勉強して幸せになれるのか?
自分が生きていることで誰かの役に立てるのだろうか?
自分って何?
個性って何?私にそんなものあるの?

頭のなかで何度も何度も哲学対話がグルグルと回っているわけです。答えの出ない問いを考え続けるのはとても苦しいことです。意味を問うには中学生の思考力や知識ではあまりにも武器が少なすぎます。だからその問いに飲み込まれてしまいグルグルと同じところをループするのです。

そしてこんなことを考えている自分は変だと思っています。だって、学校に行っているクラスメイトたちは、そんなこと考えずに、毎日学校に行けている。ある意味うらやましいけど、なんで疑問を持たないんだろうと不思議にさえ思ってしまう。言われたことだけをやっていく学校に毎日通って楽しいのだろうかと思うのです。一方で大人はこれらの答えをみんな持っていて立派だと思ってもいます。自分は変だ、他の子とは違う。でも、そう思われたくないから、とりあえずの理由を繕って休むのです。

学校に行かない本当の理由はお子さんの内面世界で答えの出ない問いを考え続けているからこそなのです。

3 意味を問う哲学的なグルグル思考から子どもが脱するために

不登校の理由が明確でない場合は、まさに頭の中の哲学対話から抜け出せない状態にあります。ここから抜け出すには、この頭の中で起きている哲学対話をすることは良いことなのだと肯定する必要があります。心の成長としても、意味を問うことは健全です。自立のプロセスでは必要なことなのです。ただその考えを深めすぎて苦しんでいるだけなのです。そこに寄り添っていく必要があります。「お母さんも昔、自分がなんで生まれてきたんだろうかとか考えていた」とか「自分って何だろうかなんて、未だに分かっていない」という哲学対話に乗っかっていく必要があります。それをいきなり話すというよりも子どもさんがぽろっと「学校行く意味あるのかな?」など意味深な問いを投げてきたときがチャンスです。

ただ、これを一緒に住んでいる親がやるのはリスクです。だからカウンセラーをという第三者の出番なんだと思っています。学校の先生は学校に行くように仕向けるので、そんなところには付き合ってくれません。また、中学生が親に素直になるというのは、不登校してしていまいが、難しいところがあります。照れくさいし、甘えている自分も認められないので。

カウンセラーに限らず、利害のない第三者がいることが、実はこういった哲学的なグルグル思考から抜け出す助けになることは大いにあります。

哲学対話から抜け出すための着地点は「私は私でいいんだ」という自己肯定の視点を持つことです。人と比べて自分を変だとか自分はおかしい、狂っているという思いがあるから、自分自身が意味を問うていることを認めたくないし、人にも話せないのです。誰でも、意味は問うているし、問わずに生きているとしたら、それこそ心配になります。その時期が早すぎる、または問いが深すぎるからこそ、精神的に疲れて学校に行くということすらできない状況になるのです。

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