1 子どもを一人の存在として尊重するまなざし
子どもに対してどういうまなざしを持っているか。未熟な存在、弱い存在、何もできない存在、手のかかる存在・・・確かに、その通りなのです。生まれたばかりの赤ちゃんは自分でできることはほぼありません。幼稚園肉くらいまではトイレや食事、着替えることも手伝わないといけません。小学生になっても、持ち物や学校からの連絡は親が把握して助けないといけません。しかし、これらは全て「行為」に向けたまなざしです。生活に必要なスキルの習得には、早い遅い、そして上手下手があります。でも、「何かができるから、我が子として認める」とか、「何かができないから我が子ではない」ということはないはずです。できるできないは、自分の子であるかないかの基準にはならないわけです。
自分の子として生れてきたということだけで、その子は我が子なのです。自分の子であるということは無条件なのです。我が子というだけで素晴らしい存在なのです。ところが、子どもが成長するにしたがって、「人様に迷惑をかけないか」、「この年齢でこれくらいできるようになって欲しい」とか、その子の存在ではなく、世の中の基準に沿って子どもが成長・生活するように育てるほうにシフトしてしまいます。そして、できるだけ「普通」に育つように仕向けていくのです。
子ども一人ひとりが違った存在なのに同じ枠組みにはめようとする。つまり、その子の存在よりも、外側の行為を基準にした子育てがはじまると、子どもは息苦しくなります。しかし、子ども自身もそうするもんだと思って、頑張ります。
子どもの行動基準は「親が喜ぶかどうか」です。自分が頑張れば親が喜んでくれることが分かれば子どもは一生懸命になります。そして、子どもの中にも「できる自分はOK」「できない自分はダメ」という基準が生まれます。その結果、自分の本心から出てくる考えや思いよりも、他人を基準にした行動を選択するようになります。
一方で、存在に目を向けて「私の子は素晴らしい存在だ」ということを無条件に認めていくことは、子どもが「私はわたしであっていい」という思いで生きることができます。そもそも、子どもは一人ひとりことなる存在です。兄弟でも性格が全然ことなります。それは生まれた時から違いが見えます。例えば、授乳です。一回の授乳でたくさん飲む子もいれば、ちょっとずつ、細切れに飲む子もいたり、さらには、たくさん飲むけどたくさん吐いたり、朝はたくさん飲むとか、寝る前にたくさん飲むとか、そこだけ見ても、子どもは違った行動をとるわけです。そのあと身につけていく生活スキル、発する言葉、好きな遊び、どんどん違ったものになっていくのは当然です。その違いがあるのは当然のことと認めながら成長を見守るには、子どもの行為に重きを置くのではなく、存在そのものを素晴らしい存在として認めていくという大前提が必要なのです。
2 他の人と比べない
存在を認めるというテーマと関連するのが、比べる、つまり比較のテーマです。
「○○ちゃんはあんなに上手に自転車乗れるんだから、あなたも頑張りなさい」
「お兄ちゃんみたいに上手に字が書けるようになってね」
「妹ですらちゃんとお片付けするんだから、お姉ちゃんもやってよ」
と、同世代の友達や、兄弟姉妹で比べて、できていないことを叱る。競争心をあおって、劣っているほうを引き上げていこうとするときに使われる常套手段のようになっています。でも、これは子どもにすればとても不幸なことなのです。劣等感を植え付けられてしまい、自分は劣っている存在だという認識が生まれます。そして、別のもので勝負しようとします。たとえば、勉強で叶わないのであれば、スポーツ、まじめキャラで叶わないのであれば、ひょうきんキャラを演じる。そして、自分じゃない自分になろうと努力をします。これがうまくいってしまうと、実は悲劇なのです。というのは、自分じゃない自分じゃないと周りに受け入れてもらえないという思考が身に付きます。そしてますます、本来の自分を隠していきます。そのギャップに疲れてしまいます。毎日背伸びをして、本来の自分じゃないキャラを演じ続けることに疲れると、押し殺していた感情が爆発します。それが、外に向けば他人を傷つけることになるし、自分に向けば、自分を殺しにかかります。
また、比較の視点が子どもに持ち込まれると、人と勝負することが常になります。行動の基準が、他人に勝つこと—優越感を味わうことになってしまいます。子どもは親に言われなくても、兄弟姉妹や友達とじぶんを比べてしまうものです。そして自分を責めます。この自分への責めは、大人になると習い性になってなかなか抜けません。そして、この自分を責めるクセが普通だと思って生きると、責められることを恐れて、挑戦しない、行動を控えることをします。親の役割は、その差を埋めなさいというよりも、それこそ、存在を認めてあげて「あなたと○○ちゃんは違うの。違っていいの」ということを認めさせていくことです。
自立した存在として生きるには他人との比較ではなく、この自分は自分でいい、という認識が必要です。自分で自分自身を素晴らしい存在として認めていくことです。これを妨害するのが比較の視点―優越感と劣等感を行ったり来たりする生き方—です。他人と違うということを認識しつつもそこに優劣をつけない。そういう思いで子どもに接していくことで、徐々に子どもは自分の存在を「これでいい」と認め始めます。
なんだか調子に乗っていく感じがありますが、それでいいのです。そうしないと自立した存在として生きることはなかなか難しいのです。
3 子どもには子どもが歩むべき人生があるという認識
子どもに対して、行為ばかりに目が行ったり、他人と比較するのは、親の不安があるからです。子育に自信がある親というのはなかなかいません。子の育て方でいいのか、これで間違っていないのかということを問いながら、不安の中で育てていくことがほとんどかと思います。特に第一子に関しては。育児系の記事が書いてあるサイトや、育児書を読んでも、うまくいった事例ばっかりで、そんなにうまくいかないとお母さん自身が自分を責めてしまうことにもなります。
「うちの子がこのまま育って大丈夫だろうか?」
という不安な気持ちは多かれ少なかれどの親でももつ不安であります。おそらく、あなたの親御さんも同じように思われてあなたを育てたはずなんです。親が思うようには育たなかったとは思いますが、実際には学生を終えて社会人となり、家庭を持ち子どもを育てているわけです。十分じゃないかもしれませんし、それこそ自分はダメな親だとか思っているかもしれませんが、あなた自身は素晴らしい存在なのです。そして、親の不安をよそに、大人として、社会の一員として育たれました。
それは目の前にいるお子さんにも同じことが言えるわけです。親の思うようには育たない。でもその子はその子なりに、育っていってやがて社会に出るのです。親が思った人生、親が思う「こういうふうに育ってくれれば大丈夫」という思いではなく、お子さん一人ひとりが本来歩むべき人生を歩んでいく。そう信じて、子どもの人生を手放すことこそ、自立した子どもを育てる上でもっとも大事な要素です。
これは我が子に対する絶対的な信頼と他の人と比べない視点がもたらされることになります。大丈夫な存在として子ども認めて、この子はこの子の人生を歩むものとする。もちろん、ある年齢に応じてお世話をする必要もありますし、経済的に支援することも大切です。しかし、それはその子の存在を軸にした手助けであって、親がこうしようという思惑をもって育てるということとは異なります。
不登校は自立とは対極にあるように思われます。しかし、子育てを見直すチャンスです。子どもがその子らしい人生を歩んでいくことをこれから支えることができれば十分なのです。子育てに早い遅いはありません。時間はかかるかもしれませんが、取り戻す、やり直すことは必ずできます。